Statement (和龍美)
自然の成したるものを、自らの手柄であるかのように、それを磨いたり隠したりするのではなく、ありのままをただ受け入れて、花が咲き、枯れてゆく事象のままに、ここに在ればそれでいい。
土手は、空と陸とを分かち、こちらの側と向こうの側とを完全に隔てている。
貼り付けたように移り変わる、この世界の表層だけをみて、今日の日をここで生きられたなら、それでいい。
生まれて、生きて、死ぬ。
単純な出来事が、この世界を作っている。
わたしは、この生のはじまりを知らないし、おそらくは、この生の終わりを知ることもできない。ただ、誕生と死のあいだの、この限られた時間の中を「私」という曖昧な現象が、うつろっているにすぎないのだ。
誰もが、私は、「この「世界」を生きている」と思っている。
けれでも、”私”という存在が、”一人称”として、この世界の渦中にあるのだという考えさえ、手放してえば、本当は、この世界が、「私とは何らかかわりのないところに存在している」ものだと気づくのだ。
わたしたちは、私がいなくなっても、なんら変化の起こらない世界の中にいて、その世界は、私とは何も関わることなく、永久に存在し続けていく。
スタート地点もないが、終わることもない、その世界の表層だけをみて、私は私の”始まりと終わりの間”を生きている。
貼り付けたように移り変わる、この世界の表層だけをみて、今日の日をここで生きられたなら、それでいい。
山本 真紀子
同種のもののコレクションではなく、同じものの「時間」のコレクション
定点観測ともいう
これによりみえない時間の流れが「可視化」される効果がある
定点観測については「意味なく」やっても面白くない
なぜ土手なのか、なぜスクエアなのか、なぜ定点観測したのか
こういう「被写体自体」ではなく「行為自体」や「その意味」に重きを置くところはコンセプチュアルアートと言って良い
「被写体」は写真によって指し示される意味ある「対象物」ではなく、作家の意図を伝達するための「メディウム」になっている
「土手」という形のある物理的環境が写ってはいるが、「土手そのもの」を映すことを目的にしたのではなく、土手という物理的環境は和龍美の「思考を映し出すスクリーン」として機能しているのだと思う
ここがこの作品がコンセプチュアルアートと呼べる要素である
【境界と断絶、価値観の付加】
土手は地面と空を分ける「境界」である
しかし境界によって分け隔てられたそれぞれのものに序列があるわけではなく、すべては平等である
人類は社会の複雑さをより扱いやすくするために物事を分類し、組織化し理解しようとする
その過程で「人為的な境界」というものが分類のために作り出されてゆく
それぞれの「境界」で便宜的に分けられたものは分断され、恣意的に意味を与えられてゆく
境界のあっちは良い、こっちは悪い、と勝手に分けて、勝手に定義してゆく
しかし、この世に存在するものに元々「境界」などは存在しない
すべてが混ざりあい相互作用しながら共存しているのだ
人間の都合で作られた「境界」で分けられ、分類されたものたちのどちらが良いとか悪いとかいう概念はそもそも存在しなかったのだ
すべては平等で等価である
生と死すら、どちらが悪いわけでも良いわけでもなく等価なのかもしれない
境界への疑問、人の都合で分けられ定義されたものの平等性、この二つが「土手」と「スクエア」という目に見える形を通して「可視化」されているのかもしれない
【生と死の境界】
この土手と空が作る「境界」というのはこの世に存在する様々な境界を象徴している
強く「死」を意識する瞬間があった和龍美はそのなかでも特に「生と死」の境界というものを感じ取ったのかもしれない
「死」というものは忌み嫌われ「生」と対照的に扱われることが多いが、そもそもその間に境界などは存在せず、良い悪いという差なども存在しないのかもしれない
生きているときはただ生きればいいし、死んでしまったらそれは嘆き悲しむことではないのかもしれない
【等価性、平等性】
この世に存在するものや出来事はそれぞれ相互作用を持ちながら共存している
一見関連性がないものでもどこかでつながっていたり、同じ仕組みで動いていたりする
一見別のものに見える「レンガの建造物」と「デジタル写真」には、最小単位である「レンガ」や「ピクセル」を順番に積み重ねることにより「建造物」や「写真」を作り上げてゆくという共通点がある
このような、一見別物に見えるモノ同士の間に「共通点」があり、そもそも「等価」であるということが多々存在する
上下という感覚は「重力が一定方向に働いている地球上」にいるから意味があり、宇宙で浮かんでいるときは「上も下も一緒、つまり等価」になる
そもそも「すべては共通した等価なものである」はずの世の中には「人の都合で境界」が発生し「分類されたものの間にヒエラルキー、善と悪、良い悪い」などの価値判断が付加され「平等性」が失われてゆく
そういった「そもそも存在しない境界によって分断され、等価性や平等性を失ったもの」への視線を「土手というスクリーン」に投影しているのが和龍美の作品なのかもしれない
【循環】
もう一つ時系列の土手の写真を見てわかることは「季節の循環」である
この世にあるものは「連続的に循環」している
その「連続した時間、連続する循環」にもまた「境界は存在しない」のだ
わたしたちは便宜的に「連続する時間」に「一日」、「一か月」などの「境界」を与えて生活のリズムを刻んでゆく
そして分断された時間の単位に「今日は良い日」「今日はいまいち」といった価値判断をふかしてゆく
しかし、時間はすべて等価であり、平等であり、連続している
「土手」の写真群が作り出すスクリーンにはこういった、私たちが忘れがちな真理が的確に映し出されているのだと思う
【連続】
この作品を見て感じたことに「作品に終わりはあるのか」ということと、「作品は最終的な結果なのか」ということだ
この作品は「時間的に連続している」ので、続けようと思えばいつまででも続けられる
「終わり」を設定するなら「季節が一巡したらやめよう」などのように決めるしかないだろう
逆に「一生やろう」ということも可能なのだ
「ここで終わりにしよう」というゴールを決めて、それを通過したらその作品は「最終的な結果物」になるのだが、「一生やろう、もしくは自分がいなくても誰かに引き継ごう」と決めたならその作品は「永遠に過程」であり「結果」は訪れない
タイポロジーの写真作品には実は「終わりはない」のかもしれない
根っこの写真も土手の写真も壁の写真も、延々と撮り続け、コレクションを拡大させていくことが可能だ
一つの景色を描き上げて完成する絵画と異なり、「終わりのなさ」「結果がない」「いつでも過程である」という「連続性」「すべて過程で結果がない」という面白い状況が発生している
写っているもの自体「撮影の最終目標であり、それを写せば任務は完了して結果が出る」という写真もあれば、「常に過程であることが重要」な写真もあるのだろう
「土手」というスクリーンにはこういったすべての要素が投影され、私たちの思考を刺激し、「当たり前を当たり前と思わない」「境界とはなんだろう」「序列や価値判断は相対的なもので絶対ではない」といった発想へわたしたちを導いているのかもしれない
Tetsu Osumi