Statement (鼓代弥生)
この作品は「時間」と「表面」を軸に、「切断」と「反射」という二つの視点から構成されている
きりかぶ
きりかぶの断面は、年輪という木々の成長に伴う「時間」の痕跡を内包したまま存在している
その断面のみ切り抜き、モノクロのグリッドとして配置することで、個々のきりかぶの持つそれぞれの「時間」を抽象化し、あるひとつの集合体として提示し、「切断」の不可逆性を可視化した
雪上の光
一方、札幌の雪上に映る窓から「反射」した光は、雪という冬の間しか存在しない一時的な「表面」に現れては消える、刹那的な像である
それらを写真として集積することで、日常に潜む微細な出来事とその背景とのつながりを示している
固定された時間と移ろう時間
この二種類の写真により、きりかぶの年輪に刻まれた「固定された時間」と今しか存在しない雪の上に偶然投影された反射光によって現れる「移ろう時間」が可視化されてゆく
固定された時間と移ろう時間は、パターン化しながら流転する生そのものだと考えている
鼓代弥生
時間の可視化
和龍美の作品と同じく、鼓代の作品に現れる「きりかぶ」には「時間」という概念が投影されていた
「きりかぶ」の持つフォルムなどの外観上の面白さは確かにあるが、あまりフォトジェニックではなく人の目に留まることはあまりないだろう
しかし、その表面には流れゆく時間が「可視化」され存在していたのだ
「きりかぶ」という存在
「きりかぶ」は、ある機能を終えたものが打ち捨てられた痕跡である
かつて人々の役に立っていた木が、その任務を終え、伐採された後は、誰にも気にされず、放置され、取り残された「きりかぶ」としてかつての存在の痕跡を残す
しかし、切断され「きりかぶ」となったことで、目に見えなかった「年輪という時間の痕跡」が可視化された
ある意味、「木」としての生命もある意味「切断」されてしまったわけだが、それにより今まで見えてこなかった「時間」が見えるようになった
鼓代は打ち捨てられ、誰の目にも留まらず、忘れ去られたものに対し目を向け「表面に残る時間の痕跡」に着目した
「見るという行為の痕跡」
「撮影」という行為には様々な意味があると思う
自分の気に入ったものを所有し収集するという目的、移りゆく時の中での一瞬を切り取り記録する、など様々な撮影理由がある
あくまで「結果としての写真」を残すことが主な目的である
しかし、ここで思ったのは「生産物、結果としての写真」のみが重要なわけではなく「わたしはあなたに気づき、見ている、そして決して忘れない」という意思表示の痕跡である、というのも「撮影」という行為の重要な役割なのではないかと思った
「撮影するという行為自体」も作家の目に見えない思考を可視化する一つのメディウムなのかもしれない
鼓代の写真には「きりかぶ」を紙の上で可視化した「物体としての写真」である以上に、「撮影と言う行為」に伴う、かつては人々のために働き、今は忘れ去れた、名もなき者たちへの「わたしは見ているというメッセージ」が付加されているようにも思える
コンセプチュアルアートにおける被写体
撮影という行為の結果として残った「写真に写っているもの」が大切な場合もあるし、「写真という結果物の存在」により示される「何か別の物」が重要である場合もある
たった一つのモチーフ「きりかぶ」は外観的には決してフォトジェニックではなく、インスタのタイムラインにはほぼ載ってこないだろう
しかし、感性を研ぎ澄ましてみると「そこには見えないはずの時間」が可視化されていた
「きりかぶ」という記号が指し示す「時間」「切断」という要素
そしてそれによって連想され可視化される何か
このように「被写体自体」が鑑賞の対象ではなく「それが指し示すもの」に重きが置かれている場合、これはコンセプチュアルアートと言ってよいだろう
また「雪」という物体は「雪だるま」「雪像」として撮影された場合は「それ自体が被写体であり、見るべき対象」である
しかし「雪」という記号が指し示す「移ろいゆく時間」、これがこの作品の「見るべき、感じるべき対象」なのだ
光の反射も動き続ける太陽や風に流される雲の位置、建物の位置によって移ろいゆく
「雪」という「一過性のもの」であり「常に形を変えてゆく」ものの上に「反射」という「偶然性に左右される」ものが投影される
「きりかぶ」という物体、「雪という物体」「反射という現象」、これらは「時間」という概念を指し示す記号に過ぎない
結果としての写真、スクリーンとしての写真
通常は「物体化された作品」を最終生産物だと思い鑑賞する
しかし、「物体化された作品」が最終生産物なのではなく、それは単なる「作家の思考を映し出すためのスクリーン」である場合もある
例えばマルセルデュシャンの「泉」について考えると、「便器」が大事なわけではなく、それが「大量生産の既製品」であり「作者が匿名」であり、さらには「崇高なアートとはほど遠い」「ちょっと人を小ばかにしたような」存在であればおそらく何でもよかったと思う
あの便器は「最終生産物としての作品」ではまったくなく、デュシャンの思考を映し出す単なるスクリーンの役割しかしていない
このばあいの「最終生産物としての作品」とは「便器という物体に投影されたデュシャンの思考」なのである
このように考えると鼓代の作品は、そこに写っている「きりかぶ」は本当の意味での最終生産物としての作品なのではなく、鼓代の思考や行為を映し出すためのスクリーンなのかもしれない
写真というものはその目的によって「最終生産物」にもなるし、「単なる過程の記録」にもなるし、どこを終着点にするのか、もしくは終わり自体ないのかは作家の意図によって決まるのかもしれない
美的なものが対象からのメッセージから目を逸らせてしまう
目新しく、キャッチーで、誰もがうらやむもの、が写っている写真では、鑑賞者の目はその写っているもの自体に奪われ、それ以上思考は進まない
あえてフォトジェニックではなく、普段は誰も目に留めない、関心を持たない「きりかぶ」だからこそ、「なんだこれは?」「なぜだ?」という鑑賞者の思考を刺激するのかもしれない
「写った対象物が最終目的ではなく投影のためのアイテム」である
「物体化されたものより思考や行為に重点がおかれている」
こういう部分が鼓代の作品を現代アート、コンセプチュアルアートと呼べる部分であると思う
Tetsu Osumi